バッシングは確かにあるんだ
母子家庭だからといってバッシングされたとしても、だいたいそういうことを仕掛けてくるのは私にとって重要と思えない人物であることが多いので私自身はそんなものは「屁」でもない
今回それが中学の教師だというのがちょっと困りもの。
標的は私ではなく、息子と私だから。
願書を出すにあたり、調査書を息子に不利益な言葉を使って改ざんされていた。
ギリギリまでこちらに渡さず、土曜にわざわざ登校させて学校で調査書を渡し、出願に学校から直行させる、というやり方。
持ち帰らせると親が内容を気にしてうるさいからだと思う。
たまたま一校が郵送で、早めにうちに持ち帰ってきたので
今までの経緯からもちろん信用していないので電球に透かして封筒越しにみたら、何度確認しても「バスケットボール部(2年時)部長」と書いてある。
ん?なに?(2年時)って。
この文面で受け取った方は「なんで3年で部長やめたの?」って思うでしょ、普通。
やめた理由は何でしたか?監督の暴力で登校できなくなったんですが??
こちらは、それを受験時に言い訳する機会がないまま合否をジャッジされるわけで、
ということは、他の学校宛の調査書も一体どんな風に書かれているのか…。
全く油断も隙もない。
厳封のまま在学校から受験校に渡さなくてはならないルール。
このようなことが起こるということは、ルールを変えていかなくてはならないんじゃいかと思います。
調査書を餌に子供を脅す教員。子供たちは教師の評価を気にしてビクビクして受験まで過ごす。
狙いは?上の者の言うことを黙って聞け、世の中とはそういうものだということを
子供に教えたいということですか?
「彼の家は母子家庭だから」とスポーツ推薦の入試相談にわざわざ訪ねてきてくれた高校の先生を別室に呼んで話したそう。あのお母さんなら協力してくれるでしょう、という気持ちからだったとか???この高度な(笑)表現をどう好意的に捉えたらいいのか私にはわからない。
私立高の強豪校の顧問にそれを言うことが、息子にとって有利になるとでも思ったんでしょうか?
そもそも個人情報であり、プライバシーの侵害であり、そのタイミングで相手に開示されることは息子の志望にとって不利益にしかなりませんけどね?
少なくとも女性の担任教師が最初から好意的で無いことは確かで、それは単純に母子家庭「なのに」やりたいことを自由にしていることが彼女から見て個人的に不愉快なんだと思う。
私は、離婚したことで教育方針や自分の生き方を夫に相談することなく、ある意味自分の考え1つで選択できるのだ。しかし、その代わりに経済的なことや子供に対する責任などを1人で引き受けている。
私の結婚は、私が我慢することだけで継続できた婚姻関係ではなく、それを続けることでますます全員が破綻に向かっていくような関係だったのだから、それなりの覚悟を持たないままで母子家庭をスタートして今に至っている。私に言わせれば続けざるを得ないのは皆が自分の境遇に不満に思い、夫や姑に不満を持ちながら続けていることと同じだ。
そのような代償を伴う自由が気に入らないというなら、それは生き方の選択の問題であって彼女の嫉妬であり、自身の心の問題であって、私と息子にはなんら責任はない。
足の指で数えろって。
自分の子供時代を振り返ってみても、公立の小中学校へ行っていたことが
育ちの良い母から受け継いだ伸びやかな感性に、触ると棘が刺さるような
ガサガサとした枝で出来た心の垣根を作ったのはまさに大衆文化そのものである公立学校の環境だった。
言葉遣い、服装、髪型、持ち物、ふるまい方をすべて周りの子にあわせて
テレビで見るようなルックスを真似、わざと崩した言葉で話し、グループに入ってターゲットにされた子の悪口を言ったりと適応するのに色々と学んだ。
母の趣味でしかなかったのだけど、お嬢様然とした服装や髪型、使っている香りの良いシャンプーが小学校3年生の時の当時60代だったであろう女性教師に目をつけられ、その教師から毎日臭い臭いとか、母の手作りの服をけなされたり何かと虐められた。
算数で指された問題が出来ず、上履きと靴下を脱がされ、手の指が足りなかったら足の指で数えろ!とか。足が見えないから机の上に上がれとか(笑)。
その先生の家が火事で全焼して焼け出されたって聞いた時は、お気の毒って思うより先に
バチって本当に当たるんだな、
と怖くなりました。子供心に。
どこか醒めた目で学校の友達を見て真似ていたのだけど、「ふり」が上手だったようで友達に困ったり仲間はずれにされた記憶はない。どっちかというといつも周りに友人がいて人気者の方だったと思う。
いつも自分の嗜好が他の子と違うこと、それをみんなだったらどれを選ぶかを頭で考えて選ぶようにしていたこと、みんながどういうことを好ましく思うか、そういうことが器用に想像出来ていたのだろう。(その想像力はCMや雑誌の仕事で活かせたと思うけど)
大人になって色々体験して、選べる範囲で自分にあった環境を選んでいって振り返ると、自分の周りにぐるりと作った心の垣根を、半グレになったり、家出したりして怪我を繰り返しながら素手で壊して壊して、視界を広げてきたように思える。
ただ、今思うとそんなことがなんとも無駄な労力に思えて時間が勿体ないなぁと思う。
自分の行きたい方向に、必要ない我慢とか基礎とか、運動センスのない子に二重跳び100回とか、少食の子に給食を全部残さず食べさせるとかは、やっぱり意味がないのだ。
その時間や労力をもっと自分の志望する得意な方向にかけたほうがいいのにと思う。
そういうことがそれほど重要でない環境で育つことができたら、もっと特徴を持ったスペシャリストになれただろうに。
そう思うと、受験に差し掛かっている息子の進学する高校がどこになるのかは重要。
特に異物を排除するような考え方に凝り固まるようなところは良くない。
排他的な校風の超有名校など一部を除いては、ある程度の学力以上の学校の方が
「他者は自分と違うものでそれはアタリマエのこと」といった教育がされている子が多いと願う。
頑張っている息子にとって高校進学がいい選択であることを祈るように思います。
結果は通ってみなければわからないけれど、少しでも彼に合う環境が選べていたらいいと思う。