カミングアウトすることにした。

そこそこいろんなことが起こった私の半世紀のハイライトを恥ずかしいから隠してたけど晒すことにした。

<部品>も必要なんだろうけれど

1日の終りに見たTEDのスピーチ↓をみて腹底で感じて思いついた突飛なことをつらつら書きます。(先生様たち、怒らないでね)

http://www.ted.com/talks/sugata_mitra_build_a_school_in_the_cloud.html

 

息子を通わせていて心底感じるんだけど、日本の公立学校でもMitraさんの言うところの<部品>づくりがなされていて、傑出する子供の才能は潰されている。

そのために、ある一定以上の教育への感心と経済力のある親は放課後の学習機会を自分の子供に買い与えることに余念がない。

 

よって子供たちは学校外で心を休めたり、感性や教養を育む時間を潰して勉強し、学校外でプロフェッショナルな講師の刺激的な授業に慣れた神経で、まだ眠いのにたたき起こされ、朝から学校へ通学して(場合によっては)眠くて退屈な授業に耐え、受験のために出席と内申を確保しなければならない。

 

そのため自由な課外活動は制限され情緒的に成長するチャンスを失っている。

 

テクノロジーが充分に発展し、一般家庭にもインターネットが普及して小さな頃からゲーム機で遊び、スマートフォンやPCに慣れた子供たちが多くを占める中、公立学校では、ほとんど妄想の中にしかない一部の貧困家庭に合わせた20年以上前の昭和の時代から変わらない紙による情報伝達がおもな手段で、共働きの仕事や放課後教育のために家庭で顔を合わせる時間が少ない家族には、情報が伝わるまでのタイムラグなどの無駄が生じる。

 

 従順な性格もしくはそういった学校の、はるかに時代遅れなやり方に付き合うことが自分にとって得だと気づいている小賢しい子でない限り、学校のやり方は喜んで受け入れられることはない。つまり子供から馬鹿にされている。

 

心のなかで馬鹿にしていて素直に受け入れられない学校の指導に付き合うこと、それは子ども一人ひとりにとって大きな時間の損失であると同時に全体のレベルを落とすものであり、

平等に教育の機会を与えたいのであれば中程度の子を一番低いところに合わせるより、一番低い一部の子にテクノロジーを与えるなどして救済し、中程度に合わせたほうが国全体の未来のために良いはずだと思う。

 

公務教員の教育技術が高くないものならば、学習についてはプロ意識の高い講師やMitra氏の提言するsoleやカーン・アカデミーのようなインターネット上の学習方法に能力別に預け、

学校では子供を自主的な学習に向かわせるために、生活するための知恵や知識、家庭を運営し次の世代を育てるためのノウハウ、読書や教養、ひいては集団の中での優しさや思いやりなど学校でないと出来ない部分を養う担うべきではないかと思う。謂わばMitra氏の言う、おばあちゃんの役割に近いものであったほうがいいと思う。

 

受験で必要な内申点のために学校に付き合わなくてはならないため眠る時間を削り、学校外で深夜まで過酷な学習をしなければ一定レベル以上の教育を受けられない現状を、

プライドの高い教員たちは認め改善しようとしないばかりか、管理能力の足りない悪質な教師たちからはしばしば内申点を脅しの材料として管理される。

そのために子供たちは窮屈な生活を強いられて、情緒的な成長や教養を育む機会を失っている。そして学校では25年以上前の昭和の時代とさして変わらない内容の学習を教えている。事務仕事に忙しすぎる教師たちも、生徒たちの興味を引きつける授業を展開する準備の時間も心の余裕もなく、惰性で教えている。だから退屈で眠い。

 

子供と教師の見ている方向が違うから同じ箱に入れられても足並みは揃わない。先生の言葉は子供の心に届かない。

 

情緒面での成長をカバーするのは本来家庭の役割だったのに、公的学校教育が社会のレベルに見合っていないため、校外教育費が生活を圧迫し、核家族となり夫婦共働きが当たり前になり、子供たちの居場所もなく、彼らを励まし応援をして支える余裕が家庭にはなくなってしまった。

 

今あるカードをシャッフルして合理的に使うならば、例えば一般家庭に入り込んでいる程度のテクノロジーも学校教育に日常的に取り入れ、学習についてはプロ意識の高い一流の講師の学習指導力に対して公金を使い、

公務教員の役割は、子供を応援し、温かい人間性を育てる専門職として再構築し、

それぞれを子供の成長のために有効利用して子供たちの学習効率を上げるだけで、子どもならではの感受性の強い年令に相応しい自由を確保し、社会で中心となって働き続けることを期待されている親世代にも余裕が生まれて、子供たちが悪質ないじめや凶悪な犯罪などに走らずに自分の心と能力を育てるための時間を取り戻すことができるのではないかと私は思えてならないのであった。